J-STORIES ー 医学や創薬などの研究開発で長年行われてきた動物実験が世界的に大きな曲がり角に立たされている。生きた動物を犠牲にすることに生命倫理上の懸念が高まっているからだけではない。予算の削減、人手不足、実習中の事故などの研究・開発現場が抱える構造的な問題が一段と深刻になっているためだ。
生きた動物を使わない実験シミュレーターは一部ですでに使われているが、操作が複雑で使いにくいのが現状。「実習予算が大幅に減額されている大学では、高価な機器はとても導入できない。タブレット型の実習シミュレーターを導入してみたが平面動画では物足りなく、もっと臨場感のあるシミュレーターの必要性を感じていた」と、開発の陣頭指揮を執った島根大医学部(薬理学)の和田孝一郎教授は語る。
新たに実用化された薬理学VRシミュレーター「BMP-VR」はVRゴーグルをつけコントローラーで操作するが、表示されるのは平面画像ではなく、アニメ―ションで動物の動きや反応などを立体的に映し出す。
ゴーグルを装着すると、目の前に仮想マウスが現れる。学生はマウスに薬物を投与し、反応を観察したり、痙攣などプログラムされた症状を抑える為に、どの薬を使えばいいかを実際に試しながら学ぶことができる。結果をレポートとしてまとめるまで反復学習が可能になる。
和田教授は「動物を使うと反応を観察するまでに1時間半ほどかかる一つの実験を2〜3分で終了できる。しかも、メスや注射で動物を傷つけることなく、臨床では許されない失敗を、何度繰り返してもよい。失敗することで、より深く知識として定着させることができる」と話す。
このVRシミュレーターは、機器のリース代、学習アプリの使用料、実習の課題と回答例などを全て含めて初年度は1台12万円、2年目以降は7万円。販売を担当するERISAの野津良幸CDOは「これまで各大学が抱えていた人的課題はもちろん、価格の面でも確実にコスト削減につながる。大学の実習での活用を想定していたが、動物実験を行う企業からも関心が寄せられている」と話す。
現在、薬理学会を通じた国内での販売を展開しており、今後は海外にも販売網を拡大していく方針。野津さんによると、すでに韓国やインドなどのマーケット調査を開始しているほか、来年5月に日本で開催される薬理学会の世界大会も海外プロモーションの場としてターゲットにしているという。
和田教授は「地方大学では、予算不足、教員不足、実習機器不足の“金ない、人ない、器具もない、という三重苦状態”が続いている」と指摘する。加えて実習中の動物咬傷や針刺し事故、動物実習を拒む学生などへの対応は、どの大学においても大きな課題だ。
島根大学ではVRシミュレーターを使用した学生の98.1%が、薬理学実習の有用性に高い満足度を示しており、「自分たちで何を投与すれば、目的の結果が得られるのかを考えながら実習できた」「生き物を殺すことに抵抗があったのでVRで再現して勉強できることがありがたい」などの声があったという。
日本では、100人ほどの医学部生が在籍する大学で、薬理学実習において400~500匹のマウスを実験に使っているところもある。医学生数が同等規模の島根大でもVR導入前は100匹ほどのマウスを使っていたが、「導入後は30匹程度まで使用するマウスを減らすことができた」と和田教授は言う。さらに実習時間の短縮、何より動物の命を奪わずに、臨場感を持って学習できることが学生にも受け入れられている。
今後は、登録している薬剤や負荷の種類を増やすとともに、薬理学だけでなく、生理学やほかの動物実験にも範囲を広げていく方針。和田教授によると、現在、細菌学やウイルス学の実習においてもVRシミュレーターで再現できるよう準備を進めている。
動物生体実験は医学や医療の発展に大きく貢献しているが、一方で動物愛護のため、世界的に見直しや縮小の動きが広がっている。2016年に医学校・医学部で生きた動物を使った実習を廃止した米国だけでなく、EU(欧州共同体)27カ国とノルウェーでも縮小が進んでいる。しかし、2020年の欧州委員会の統計によると、EUとノルウェーでは年間800万匹が実験や実習に使われており、依然として相当数の命が犠牲になっているのが実情だ。
「日本においても、最終的にはVRと置き換えが可能な動物実験は、生体の使用をゼロに近づけることが目標だ。しかし、生体に対する実際の作用や命の大切さを正しく理解するためにも、生きた動物を使う実験が必要になることもある」と和田教授は話している。
記事:大平誉子 編集:北松克朗
トップ写真:ERISA提供
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