JStories ー 多くの人にとって、髪は自己表現の手段であり、生きる自信や意欲を支える重要な要素だろう。病気や治療によって髪を失うことは、精神的な苦痛を伴うだけでなく、社交やスポーツなどの活動を制約し、生活の質を大きく低下させかねない。外見の変化は社会の偏見も受けやすく、当事者は孤独や心の痛みを感じることもある。
脱毛がもたらす様々な苦痛から多くの人を救いたいという思いを胸に、使う人が自分らしく生きられるウィッグの開発に挑んでいるスタートアップ企業がある。2023年2月に設立されたハリイ(富山県富山市、代表取締役:池野順子さん)だ。
社名のハリイにはサンスクリット語の「harih」(苦しみを取り去るもの)という意味が込められている。その名の通り、髪を失った人々の生活をサポートし、ウィッグを人の欠陥を隠すものではなく身体の一部と捉え、テクノロジーの力によって機能性と美しさを追求している。

池野さんがウィッグ開発を始めたきっかけは、2018年の夏、突発性脱毛症で突然髪が抜け落ち、その不便さと精神的苦痛を経験したことだった。既製品のウィッグを試してみたものの、スポーツなどで体を動かすとずれやすく、水に入ることもできない。その使いにくさを痛感し、自分で作ろうと思い立った。
しかし、アパレル業界での経験はあったものの、美容分野は未経験。そこでまず10か月間、大手ウィッグ会社で働き始め、バックヤード業務をしながらウィッグの構造や作り方を研究した。
「自分でも開発できるかもしれない」。池野さんはウィッグのベースネットの修理が縫製作業であることに気づき、自身の服飾のスキルを活かせる分野だと確信した。その後、中小企業基盤整備機構(略称:中小機構)のBusiNest講座「アクセラレーターコース」で事業化の知識を習得し、スタートアップとしての道を歩み始めた。
ハリイが開発した「スポーツウィッグ」の大きな特徴は、既存のウィッグが売り物にしている「自然な見た目」ではなく、利用者が困っている「ずれやすい」「重い」「蒸れる」「匂う」といった使いにくさや不快感の解消を最優先している点だ。

そうした従来とは違う新しい装着感を実現するため、ハリイの製品には他社製品にはない革新的な技術が取り入れられている。
まず、3Dスキャンによる高精度な頭部模型を使った独自の成型方法「無縫製ベースネット」(特許申請中)を採用したことだ。従来のビニール袋を使った型取りとは異なり、3Dスキャンデータで頭部模型を作成することで、一人ひとりの頭の形に完璧にフィットするウィッグベースを作ることができる。
さらに、体温に反応して自己接着し、温度によって伸びる性質を持つ三井化学の新素材「フーモフィット」を顔周りに取り入れたこと。これにより、ドライヤーの熱を加えるだけで頭部にピタッと密着し、激しい動きでもずれにくい画期的なフィット感を実現した。
これにより、頭皮への負担が軽減され、利用者の精神的な不安も解消できる。ベースネットはメッシュ素材1枚で構成されているので軽量かつ通気性に優れ、真夏でも従来のウィッグにありがちな蒸れを生じることなく快適に使ってもらえる。

ウィッグの下に着用するインナーキャップには、抗菌・防臭性の高い純度99.9%の銀メッキを施した。1週間使用しても匂いにくく、速乾性も兼ね備えているため、頻繁な洗濯が不要で利便性も向上する。そして、これまでのウィッグにありがちな裏面の縫い目をなくした滑らかなノーシームデザインも肌に優しい使い心地を感じさせている。
一念発起して挑戦したスポーツウィッグの事業は、池野さんにとって「今までやってきたことの集大成」だという。ラコステ、アディダスジャパン、ゴールドウィンといった大手アパレル企業で培ってきた自分の経験が活きているからだ。アスリートのパフォーマンスを追求するスポーツウェアの知見が、ウィッグの軽量化や先端素材の活用に繋がり、また企画開発とマーケティングの経験が事業推進の大きな力となっている。

ハリイは現在、富山県を拠点に活動している。これは、富山県が提供する「とやまUIJターン企業支援事業」の助成金(移住と会社設立で最大で200万円)や、スタートアップ支援プログラム「T-Startup」の採択など、手厚い支援体制が決め手となった。また暮らす場と職場が一体となった創業支援施設「SCOP TOYAMA(スコップとやま)」に入居できたことも、事業をスタートする大きな後押しとなったという。
販売チャネルは、東京に住む医療美容師の姉との連携や、大阪国際がんセンターでのイベント出展、SNSを通じた直接の顧客との繋がりを柱に展開している。将来的には、全国のシェアサロンや医療美容師のネットワークを活用し、メンテナンスサービスを効率的に提供していく計画だ。
開発資金は、富山県の助成金と「T-Startup」の採択に加え、クラウドファンディング(2023年に75万円を調達)で始まった。そして、2024年8月8日には株式会社グリーンコアからの資金調達を実現し、研究開発を加速させている。
利用者がウィッグにかけるコストをいかに抑制するか、という点も池野さんの大きな関心事だ。「抗がん剤治療中の患者は、個人差はありますが、早くて1年、長くて2年で髪が再び生えてくる傾向があるため、高額のウィッグを複数購入することは結構な負担になる」と池野さんは話す。
そこでハリイは今後、ウィッグのサブスクリプションモデルの導入を検討している。これは、高額なウィッグ購入の経済的、心理的負担を軽減するとともに、使用済みウィッグをメンテナンスしてリサイクル販売することで、環境負荷を軽減し、持続可能な社会に貢献するという目的も持ち合わせている。

ウィッグの下に着用するインナーキャップはウィッグ利用者だけではなく、オートバイのヘルメットを着用する人々からも好評を得ており、ウィッグ事業とインナーキャップ事業の2軸で展開していく方針だ。
ハリイのウィッグは男性にも利用されているが、顧客の大半は女性だ。1台16万円(税抜)から製品を揃えており、平均して1台27万円(税抜)程度が売れていると池野さんは話す。ウィッグの毛髪素材は、人毛だけのものと、人工毛とミックスした素材を選択でき、それによって価格が変動し、人毛が最も高価だという。
国内の女性用ウィッグ市場は、医療用だけでなく、おしゃれ目的や高齢者層なども含め、2028年には850億円規模に拡大すると予測されている(マーケティングデータバンク)。
この大きな市場において、ハリイは独自の技術とサービスで、2025年度には販売台数50台程度、売り上げは2,000万円超となる見通し。池野さんによると、26年度は新製品や新サービスの投入などで売り上げを約3億円に拡大する目標を立てている。そして3年後には約7億円の達成を目指して、今後も積極的な事業展開をすすめる方針だ。
記事:石井広子
編集:北松克朗
トップ写真:ハリイ 提供
この記事に関するお問い合わせは、jstories@pacificbridge.jp にお寄せください。
***
本記事の英語版は、こちらからご覧になれます。